関東大震災とアメリカ海軍
The United States Navy's Response to the 1923 Kanto Earthquake in Japan


※アメリカ海軍は、人類史上最も壊滅的な自然災害のひとつである関東大震災において、日本の人々を支援した。1923年9月1日、本州の関東平野が壊滅的な地震の衝撃に震え上がった。地震の激しさは依然として激しく、東京、横浜の都市に甚大な被害を与え、35マイル以上離れた場所にある建物まで移動させた。つまり、震災が土曜日の真昼間に発生したにもかかわらず、地震は日本のほぼすべての市民に影響を与えたのである。家屋やビルは倒壊し、1906年のサン・フランシスコ地震と同じように、ほとんどの都市で火災が発生し、時速60マイルの強風が吹き荒れた
※横須賀では、日本の海軍兵舎、海軍病院、工部大学校が全焼し、日本海軍の対応が阻害された。また、巨大な日本の艦船を製造することで有名な海軍造船所は、その損害のほとんどを、一般市民や、横須賀市を支援しようとする外部の艦船から隠すことにした。関係者は、外国がこれらのいわゆる秘密を利用する可能性があり、この災害は国防の面で脆弱になると考えていた。いずれにせよ、大本営やその他の建物、図書館、砲術学校、魚雷学校、無線送信所、気象観測所、ウォーターフロント近くの石油タンクなどが大きな被害を受けた。大量の石油が海に流れ出し、日本海軍は潜水艦2隻、巡洋戦艦から改装中の空母1隻(天城)を失い、戦艦三笠と多数の航空機が損害を受けた。しかし、日本の連合艦隊はまだ150隻以上あり、呉、佐世保、横須賀の港湾局に救援と援助を提供した
※地震は横須賀の北20マイルでも同様の被害をもたらした。1872年に設立された横浜のアメリカ海軍病院は、ユリス・ウェッブ博士 Dr. Ulyss Webbの直接の監督下にあり、極東におけるアメリカ海軍の拠点であり続けた。横浜の施設は、アジア戦隊 Asiatic Squadronを母港とする水兵を支援し、義和団の乱を鎮圧するために派遣された水兵を救援し、米西戦争ではフィリピンとグアムを占領したため死傷者を受け入れ、フィリピン・アメリカの反乱による死傷者も受け入れた。地震当日、ほとんどの建物が倒壊し、日本人労働者、水兵、看護婦、そしてウェッブ医師までもが瓦礫の下敷きになった。人々は安全な場所に逃げ込み、崖から海に飛び込んだりもした。海軍病院では8名が死亡した。メディアは、アメリカ領事マックス・デイヴィッド・キルヤソフ American Consul Max David Kirjassoffとその妻アリス Aliceが横浜滞在中に死亡したと報じた
※9月2日、エドウィン・デンビ海軍長官 Secretary of the Navy Edwin Denbyは、エドウィン・アレクサンダー・アンダーソン・ジュニア大将 Admiral Edwin Alexander Anderson, Jr. 指揮下のアジア戦隊所属の米海軍艦艇に、横浜に向かうよう命じた。これにより、世界的に見ても人類史上最大の人道支援活動が始まった。アメリカの艦船は中国に駐留していた基地を離れ、病に苦しむ日本とその国民を支援するために日本に向かった。3日後の9月5日、駆逐艦スチュワート Stewart(DD-224)が横浜に到着したが、日本の警備部隊が駆逐艦を押し退けた。その1日後、別の駆逐艦が神戸に到着し、避難している市民を迎えに行った。そのほか6隻の駆逐艦が、神戸の米軍倉庫から物資を満載してやってきた。フィリピンの米軍倉庫から物資を満載して。旗艦の一等巡洋艦ヒューロン Huron(CA-9)は物資を積んで9月7日に到着した
※アメリカ海軍の駆逐艦3隻が、アメリカ市民を救助するために東京湾周辺の箱根、葉山、鎌倉に入港した。日本政府が芝浦と品川の要塞地帯への立ち入りを許可しなかったため、戦艦山城の艦長は駆逐艦3隻を入港させるという失態を犯した。日本外務省は、横浜の救難センターに直接向かうスケジュールを組み、陸軍輸送船メイグス Meigs駆逐艦母艦ブラック・ホーク Black Hawk(AD-9)陸軍輸送船メリット Merritt給油艦ペコス Pecos(AO-6)を一日中異なるルートを移動する補給任務に就かせた。日本政府はガイドラインを継続し、横浜に人員、輸送船、野戦病院を建設することを望まず、かなり厳しい姿勢を貫いた。日本政府はまた、外国人乗組員が荷揚げを行う前に、完全な検査を行うことを望んでいた。9月10日、ブラック・ホークは867,100ポンドの物資を積んで入港した。また、新鮮な卵の木箱、牛乳のケース、魚や肉の缶詰、果物、ガソリンも荷揚げした。合計で20隻以上の海軍艦船が何らかの支援を提供するために到着した(Appendix A)
※関係がこじれ、日本が疑惑と不信感をあらわにしても、アメリカ海軍はできる限りのことをしようと現地にとどまった。9月8日までに、アメリカ本国の対応は艦隊と同様で、可能な限りの援助を提供しようとした。赤十字救援基金は、各都市に寄付ノルマの達成を求めた。たとえばサン・フランシスコは、$500,000のうち$20,000を集め、貨物輸送艦ヴェガ Vega(AK-17)で“5,000tのカリフォルニア米と大量の缶詰”を日本に送った。赤十字は合計で$12,000,000を集め、アメリカ海軍は$2,000,000以上の救援物資を提供した。日本の都市は大きな被害を受け、死傷者リストは日に日に増え、最終的に死者・行方不明者は14万人に達した
※勇気の物語は、震災の後まで人目に触れることはなかった。震災時、22歳のトーマス J. ライアン少尉 Ensign Thomas J. Ryanは、横浜のグランド・ホテルにいた女性スラックさん Mrs. Slackを助けた。彼女は両足を骨折しており、彼は彼女を安全な場所まで運んだ。この行動により、1921年に海軍兵学校を卒業したライアン少尉は名誉勲章を受章した Medal of Honor。それにもかかわらず、アジア戦隊の全艦艇はほぼ3週間、救援のためにそれぞれの任務に留まった。そして1923年9月21日、彼らはついに出港した。日本人はサイラス・ウッズ駐日米国大使 Ambassador Cyrus Woodsを賞賛したが、彼は、外国からの援助に対する日本人の最初の憤慨と抵抗が、外界からの深い不信と干渉から生じていることを知っていた。震災後、このことが国のあり方、近代性、復興の効果について急進的な立場をとることにつながった。日本政府と公的機関は、アジア太平洋地域の経済主体の支配権を移そうとした。また、世界恐慌の世界的な影響の中で停滞し、1930年代には、はるかに軍国主義的な政府へと道を譲った
※Appendix A
US Navy vessels that brought supplies to Japan, 1923.

USS Asheville (PG-21), USS Sacramento (PG-19), USS Smith Thompson (DD-212), USS Barker (DD-213), USS Tracy (DD-214), USS Borie (DD-215), USS John D. Edwards (DD-216), USS Whipple (DD-217), USS Pope (DD-225), USS Peary (DD-226), USS Pillsbury (DD-227), USS John D. Ford (DD-228), USS Truxton (DD-229), USS John Paul Jones (DD-230), USS Hulbert (DD-342), USS Noa (DD-343), USS William B. Preston (DD-344), USS Preble (DD-345), USS Sicard (DD-346), USS Pruitt (DD-347), USS Abarenda (AC-13), USS Bittern (AM-36), USS General Alava (AG-5)

↑USS Black Hawk (AD-9). Loading relief food supplies at Tsingtao, China, for transportation to Tokyo, Japan, following the great earthquake of September 1923. Note Chinese coolies and wooden carts in the foreground. Collection of Eugene R. O'Brien. U.S. Naval Historical Center Photograph. Image courtesy of HyperWar.

↑USS Black Hawk (AD-9). Japanese Sailors help unload the ship, after her arrival in Tokyo Bay, Japan, with relief supplies for victims of the great earthquake of September 1923. Collection of Eugene R. O'Brien. U.S. Naval Historical Center Photograph. Image courtesy of HyperWar.

↑Japanese Battleships. Moored in Tokyo Bay, Japan, September 1923. Photographed from USS Black Hawk (AD-9), which had come there with relief supplies for victims of that month's great earthquake. Ships visible are (from left to right) units of the: Ise class; Nagato class; Fuso class; and Kongo class. Collection of Eugene R. O'Brien. U.S. Naval Historical Center Photograph. Image courtesy of HyperWar.


Update 23/09/12